2019年01月08日 (火) 22:14 | 編集
昨日の記事で、韓国の駆逐艦が日本の海上自衛隊P1哨戒機に火器管制レーダーを照射した事件について書きましたが、そもそも韓国との外交では、少なくともこの30数年間、辛酸をなめ続けている日本です、、、とはいえ、東京から一番近いところに首都のある隣国であり、経済的な結びつきも非常に強い国ですし、加えて安全保障の面からも、簡単に「断交しよう」などともいえない、要するに一筋縄ではいかない、という悩ましい現実があります。
さて、それではどうすれば良いのか、、、ということで、まずは朝鮮半島文化の根底にあるという「恨(ハン)」の思想というものを理解する必要があろうかと思います。
元東京都知事の舛添要一氏が「恨(ハン)」についてまとめた記事を見つけたので、以下に抜粋引用させていただこうと思います。
朝鮮文化の基調をなす「恨」の思想とは、単なる恨み、辛みではなく、悲哀、無念さ、痛恨、無常観、優越者に対する憧憬や嫉妬などの感情をいうのだそうです。
呉善花氏によれば、「恨は単なるうらみの情ではなく、達成したいけれども達成できない、自分の内部に生まれるある種の『くやしさ』に発しています。それが具体的な対象をもたないときは、自分に対する『嘆き』として表われ、具体的な対象を持つとそれが『うらみ』として表われ、相手に激しき恨をぶつけることになっていきます」とのこと。
また、韓国思想史専門家の小倉紀蔵は、「<ハン>には『恨み』という意味はあるのだが、単なる恨みではなく、そこにはあこがれの裏打ちがあるのである。そして<ハン>は上昇へのあこがれであると同時に、そのあこがれが何らかの障害によって挫折させられたという悲しみ・無念・痛み・わだかまり・辛みの思いでもある」と解説しています。
「恨」が、怨念や被害妄想につながることも忘れてはならない点で、日本による植民地支配に関しての感情がそれに当たるとのこと。(要するに、一部の日本人が「日韓併合していた時代に日本が整備したインフラがあったからこそ今の韓国がある」という理屈は、先方には通じないわけですね)
李圭泰氏は、『韓国人の情緒構造』(新潮選書、1995年)の中で、次のように述べています。
“心の中に傷をじっとしまっておく状態が「恨」なのだ。・・・(中略)・・・原義の「恨」は怨念を抱く状態、そして怨念を抱くようにした外部要因を憎悪し、またその怨念を抱いた自分自身のことを悲しむ、・・・(中略)・・・このような怨念の蓄積は韓国人の「恨」に別の意味を派生させた。韓国人の「恨」を構造的に調べてみると、怨念以外の被害者意識が絡んでいる。韓国人は、国民は官憲の被害者であり、貧しい者は富む者の被害者であり、野党は与党の被害者であると思い込んでいる。“
韓国駆逐艦の上空を旋回したP1哨戒機は「加害者」であり、自分たちは「被害者」である。植民地支配をした日本のP1哨戒機は、自分たちに「怨念」を抱かした「憎悪」の対象なのである。
、、、上記引用文の中で、個人的に特に「なるほど〜」と思うのは、「国民は官憲の被害者であり、貧しい者は富む者の被害者であり、野党は与党の被害者であると思い込んでいる」というくだりです。
そう考えると、韓国発で報道される様々なニュース、特に一聞しただけでは我々日本人には理解しがたいようなニュース(例えば、民主的に選ばれたはずの歴代大統領の多くが退任後に逮捕されていることとか、ナッツリターン事件に於ける公開処刑的な謝罪会見とか)にも合点がいきます。
それにしても「恨(ハン)の思想」という価値観は、日本人の価値観にとっては厄介です。
仮に、日本人社会の中に「恨(ハン)」の思想を持って、しかもそれを最大限にアピールする人がいたら、きっと「子供じみた人」と言われてしまうでしょう。
「まったく、ガキじゃあるまいし、、」と言われるのがオチです。
そうなんです、日本にとって韓国政府ってのはタチの悪い子供じみた大人なのかもしれません。
そんな子供じみた、しかも身内ではなく、ご近所にいる子供じみた大人、、、付き合わないわけにはいかないし、仲違いするわけにいかない、、、さてどうしたものか。。。
これはもう「おだてる」しかないですね。感情を逆なですると逆効果です。
でもおだてこそすれ、謝ってはダメ、、、もちろんお金も渡しちゃダメです。
カサにかかって「もっと謝れ、もっと払え」と言ってきます、きっと。